ユーモアと人間

『大喜利』、これを他人が興じているのを見るのが僕は大好きだ。

一般的には、感心と笑いを追求する脳内の遊びだ。

僕はお笑いが大好きなので、その演者の発想に感心しきりだ。

さて、この大喜利だが、つまらないことを言うと座布団を取られる、要は『減点』されることになる。

つまらないこととはなにかというと、感心しなかったもしくは笑えないことなのだが、なぜそうならなかったのかというと、利き手の意表を突いて来なかったということだ。

一般的に大喜利に参加する人間は、そのルールを把握していることが多いため、全然テーマに即していない素っ頓狂なことを言ってしまったということはほぼないとすれば、つまらなかったのはそれを聞いたときに、『普通ですね』と思わせてしまったということだろう。

これがおもしろい。

世間一般は、『一般』という言葉が入り込んでいることからもわかるように、普通であることを求める。

それは『常識』『正論』と呼ばれるものだ。

生きていく上で必要なのは『常識』あるいは『正論』であって、それを成長とともに身に着けることが善とされる。

ただ、大喜利ではそれは通用しないのだ。

では、例えば一般人が大喜利に参加して、ウケることができずに司会者に「つまんないねぇ」と言われて、「いや、私は一般的な正論を言ったから誇らしい」とはなるだろうか。

ほぼそうならずに、「悔しい」という感情を抱くだろう。

人間的なおもしろさというものは、その人のユーモア、多分これは「一般常識ではないなにか」を所有しているか否かなのだ。

一般社会では100点の答えが、お笑いの世界では30点未満となってしまう。

しかし普通に生きていればなんの問題もないはずなのに、「つまんないね」と言われれば人は傷つく。

自分や他人に「正論」を求める行き方をしているのに、ユーモアも要とする。

これは矛盾してしまうものなんだ。

世間を逸脱すると、とたんに人間らしさが増す。

憧れの存在が、実は足元にいるみたいなそんな感覚を抱く。

さらに言えば、昔の無知で無自覚な自分がとても人間らしいという事実にも気付かされる。

お笑い芸人を観ていると、本当に感覚的な面白さ、奥ゆかしさを感じる。

人が笑いを求めるのは、認知としての笑いだけでなく、認知できない一種の愚かしさと憧れを期待するのだろう。

芸人は人間らしさというものがよく学べる。

お笑いが好きな人間もまたきっと魅力的な人間であるのだろう。

みんな人間らしく有りたいのだ。

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