無責任からの脱出

僕は無責任な人間である。

正しい表現をするならば、僕の言動でその人の未来が変わってしまうことに対する責任に耐えられない。

誰かと意見交換するとき、自分の考えはそれなりに持っているとは思う。

しかし、相手方の意見を聞くと、「一理ある。尊重しなければ」となり、基本的に僕の考えは引っ込めてしまう。

これは、例えば僕が会社員でなんらかの責任者である立場である場合に、部下の意見を尊重する良い上司という考え方もできる。

一方で、当人としては自分の決断に自信がないただの優柔不断な無能上司としか思っていない。

絶対なんてない。

という信念が僕にはある。

だからこそ決めつけもしないし、押し付けもしない。

僕にはわからないもののほうが多いし、他人の可能性の方を信用している。

TiktokをはじめVtuberの流行も理解できていない。

しかし流行っている事実があるのだから、きっとそれは楽しいものだし理解できていない自分が例外なんだ。

だから相手が自分で責任を持つという行動なら信用するし、否定なんてしない。

まあ失敗してもいいだろうという楽観的な面も持ち合わせているため、相手が失敗しても責めることなんてないし、逆に何も手助けできなかった自分を責めたりもする。

要するに生きづらい人間だ。

なんとなく、そういう自分を受け入れて生きて行くしかないと思っていた。

 

最近は新しい人との出会いが一切ないため、新しい知見を本に求めるようになった。

著者の考えを知りたいんだ。

とりあえずネットの情報で気に入った著者の本をメルカリで安く買い漁って読みふけっている。

こんな姿を父親が見たら狂喜乱舞して喜ぶだろう。

実際は苦しんでいるから喜ばれると困るのだが。

中年の生きづらさ、しかも会社員ではない生き方をしている人間となると、著者選択がなかなか難しい。

そのなかでオードリーの若林さんの本「ナナメの夕暮れ」の評判が大変良く、購入して読んでみた。

雑感としては、共感できる部分が多く惨めな思いをしていた事実も変わらないのに、今ではそれを乗り越えて立派に仕事をして人気者になっている彼に大変勇気づけられた。

著書内で「批判ばかりするおっさん」はダサいと述べられていた。

批判するのは簡単だが、せめて代案を必ず出せと。

言い出したからには責任を持てということなのだろう。

行動を止めたのであれば、違う道に誘導しろと。

このときふと宮崎駿のことを思い出した。

彼はiPadを使用して悦に入っている若者に、そんなもので手に入る情報に満足しているようではいけないと叱責する。

ここまでなら批判だが、その後に「自分の五感で調べ、赴き、さらに想像して学べ」と代案を出している。

加えて「消費者でなく生産者であれ」というおまけ付きだ。

必ず代案を出し、やってみろと諭す。

結果を残している人間は指導者としての責務をしっかりと果たしているんだ。

その後言われた人間が成長するかはまた別の話であるが。

この「生産者であれ」も若林さんの著書に通ずる記述がある。

カッコつけて内に引きこもらず、みっともなくても自分の姿を発信しろと。

生産者は同じ境地に落ち着くんだな。

 

僕は現時点で批判するだけのおっさんだ。

ただ、そこから変わりたいと、学ぶ姿勢をシフトチェンジし始めた自覚がある。

そんなの思春期に一般的な人間は終わらせているもんだと若林さんの本にもかかれているが、彼同様今までそれができなかった人間も居るんだよ。

つまりここからが僕の成長期なんだ。

少しずつ自分の生き方に代案を出し、自分に責任を取らせながら生きていこう。

 

ここのよくわからない下手くそなエッセーもどきは、僕の成長のあしあとだ。

なんてみっともないのだろう。

でもちょっと楽しいんだ。

今を楽しむ僕のこの拙い文章が未来の僕に届くと期待している。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

トップに戻る